カテゴリ:トピックス( 11 )   

まちかどの近代建築写真展Ⅷ 2017.9.12~28 甲府駅北口藤村記念館   

全国のまちかどにある近代建築の写真展です。今回は医院建築を特集しています。   ご来場いただければ幸いです。
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9月28日に終了しました。多数のご来場ありがとうございました。

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by kousyuusai | 2017-09-11 10:35 | トピックス

謹賀新年   

 新年明けましておめでとうございます。
この年末年始は天候に恵まれ、我が家の高台からは遥か北アルプスの峰々までが望めました。奥穂、北穂、南岳、槍ヶ岳などが白銀に染まっています。
今年もこの峰々のように鮮烈な心ざしをもって新たな挑戦に臨む覚悟です。
皆様も健康に気を付けてお過ごしください。
本年もよろしくお願いいたします。
「人生は8合目からが面白い」
甲州斎
     
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by kousyuusai | 2017-01-01 07:00 | トピックス

山梨のイルミネーション   

甲府駅前
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ハイジの村
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石和温泉
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竜王駅前
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西嶋集落
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by kousyuusai | 2016-11-04 19:23 | トピックス

まちかどの近代建築写真展Ⅶ 2016.10.4 甲府市藤村記念館   

第7回まちかどの近代建築写真展が甲府市の藤村記念館で10月4日から21日まで開催されます。今回は商店建築にスポットを当てた企画となっており、全国の懐かしい商店建築写真が一堂に展示されています。お気軽に足を運んでください。
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10月3日に甲府市教育委員会の方々と協力して飾りつけを行いました。レトロ趣味の方にはもちろんの事ですが、全ての方に失われゆく物への郷愁と先達の物創りへの情熱を理解してもらえる事と思います。実行委員会一同、皆様のご来場をお待ちしています。
10月4日 YBSスコーパー情報で紹介されました。友人の仙洞田先生が出演しています。
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by kousyuusai | 2016-10-01 20:16 | トピックス

日本の冒険家たち   

1,伊能忠敬
 1745年千葉県九十九里町に生まれる。50歳で江戸に出て、天文・測量術を学び、73歳まで日本全国を歩き回って、日本地図を作り続けた。その歩数は4000万歩を越えたといわれる。日本地図の創始者
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2,間宮林蔵
 1780年筑波郡上平柳村(現茨城県伊奈町)生まれ。19歳から43歳まで蝦夷地(北海道)全土や樺太を命がけで探検。伊能の北海道地図作りに大いに貢献した。
 特に樺太の探検と地図作りによって間宮海峡を発見し、樺太が島であることを示した。
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3,白瀬中尉
 1861年 秋田県金浦町生まれ。1912年 日本人初の1年7ヶ月にも及ぶ南極探検実施 以後の南極探検への道を開く
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4, 河口慧海(かわぐち えかい)
 1866年 大阪堺市生まれ 本名定次郎
 1897年 仏教経典を求め、神戸港からインドへ(チベット語を学ぶ)
 1899年 ネパール入国(カトマンズでサンスクリット語を学ぶ)
 1900年 中国僧と称してクン・ラ峠(5411m)を越えチベット(ラサ)に入国
        日本人として最初のチベット入国者となる
 1901年 セラ寺の大学入試に合格し、そこで経典を学ぶ
 1902年 日本人である事が露見しそうになったので、ラサを脱出しインドへ
 1903年 数多くの経典を持ち帰り帰国。
 1904年 西蔵旅行記(チベット旅行記)を出版。国中に大きな反響を与える。
 1945年 80歳で死去
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5,三浦雄一郎
 1933年 青森県青森市生まれ
 1985年 世界7大陸最高峰スキー滑降
 2003年 エベレスト最高齢登頂記録(70歳)
 2008年 エベレスト最高齢登頂記録(75歳)
 2013年 エベレスト最高齢登頂記録(80歳)3度目
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6,堀江謙一
 1938年 大阪市生まれ。
 1962年 日本人初ヨット単独太平洋横断63日間
 1974年 単独無寄港世界一周
 1989年 2度目の単独太平洋横断
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7,植村直己
 1941年 兵庫県城崎郡日高町生まれ。
 1970年 日本人初エベレスト登頂
 1978年 世界初北極点犬ゾリ単独到達
 1984年 世界初マッキンリー冬季単独登頂
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8,風間深志
 1950年 山梨県山梨市生まれ。
 1980年 キリマンジェロ峰バイク登坂
 1987年 世界初バイクによる北極点到達
 1992年 世界初バイクによる南極点到達
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9,大場満郎
 1953年 山形県最上町生まれ。
 1977年 北極海単独徒歩横断
 1999年 南極大陸単独徒歩横断99日間
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10,白石康次郎
 1967年 東京都生まれ
 1993年 世界最年少単独無寄港世界一周(26歳)
 1998年 太平洋横断世界新記録(14日17時間)
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11,星野道夫
 1952年 千葉県生まれ
 1990年 木村伊兵衛賞受賞
 1996年 カムチャッカ半島でヒグマに襲われ死亡
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12、中山嘉太郎
 1957年 山梨県一宮町生まれ
 2001年 シルクロード9400km単独走破(西安--イスタンブール)
 シルクロード9400kmと一口に言っても日常の我々には理解しがたい。日本列島を一往復半しても及ばない距離だからだ。それを一日50km、200日も走り通すのだから尋常な体力や気力ではない。世の中にはすごい人間もいるものだ。
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 2005,5,31アウトドアショップ エルクでの公演を終えて

13、田部井淳子
 1939年 福島県三春町生まれ
 1975年 エベレスト世界女性初登頂
 1992年 世界7大陸最高峰女性初登頂
   言葉 『人生は8合目からが面白い。』
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14、竹内洋岳(ひろたか)
 1971年1月 東京都生まれ
 2012年5月 日本人初8000m峰14座登頂成功
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15、南谷真鈴(みなみや まりん)
 1996年12月 神奈川県川崎市生まれ
 2016年1月 南極点到達
 2016年5月 エベレスト登頂
 2016 年7月 世界7大陸最高峰日本人最年少19歳で登頂(世界2番目)
 2017年4月  北極点到達
 次の夢は世界8000m峰14座チャレンジ
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by kousyuusai | 2016-08-26 07:44 | トピックス

まちかどの近代建築写真展Ⅱ 2011.9.17 甲府市藤村記念館   

まちかどの近代建築写真展Ⅱが甲府駅北口にある藤村記念館で開幕した。今回は「懐かしの駅舎を訪ねて」と題して、全国の駅舎290点を展示してある。駅舎の中には今般の東北大震災で消失してしまったJR大船渡線の大船渡駅や陸前高田駅も含まれている。まさに懐かしの駅舎となってしまった訳だが、これらを記録に残した近代建築探訪者の熱意に感服した。
会期は10月16日(日)までの1ヶ月間 <入場無料>
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by kousyuusai | 2011-09-17 22:36 | トピックス

まちかどの近代建築写真展 2011.4.2 甲府市藤村記念館   

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準備風景
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NPO法人「甲府駅北口まちづくり推進委員会」の人々と共に写真展開催に協力した。
今写真展は甲府市の建築家仙洞田先生の発案で企画されたもので、藤村記念館のリニューアルオープンにふさわしく、すばらしいイベントとなった。
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by kousyuusai | 2011-04-03 01:30 | トピックス

まちかどの近代建築写真展 2006.4.22~30 甲府カトリック教会   

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全国を回って近代建築を探訪している岡崎さん、前村さん、吉田さんの3人が東京から応援に駆けつけ、仙洞田さんと一緒に準備しました。教会のステンドグラスを背景に心洗われる雰囲気の中で開催でき、甲府工業高校建築科の生徒や教会の関係者など来場していただいた方々もたいへん感銘を受けていたようです。ありがとうございました。
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by kousyuusai | 2006-04-23 20:27 | トピックス

私の好きな歌人   

1、千恵子抄の愛と真実 高村光太郎  
 智恵子抄は純愛の名作として名高いが、その陰の部分は封印されたままだ。書かれたのは美化された千恵子であり、片面の千恵子は彼方に追いやられている。父の死、生家の没落、身内の相次ぐ死、一家離散などによる精神的苦悩に加え、経済的困窮が千恵子の精神をさらに混乱させていった。光太郎との生活においても実家に心と経済的な拠り所を求めてきたが、そのいずれの支えも失い、そのことが一層病気を悪化させた。
 自己を失い狂って凶暴になった千恵子は7時間もの間独り言や叫びを続け、かと思うと急に静かになり鎮静の時をむかえる。ときに近くで大勢の人を前に訳の分からない演説をしたり、窓から通行する人に向けて大声でわめいたりして、交番から何度も注意された事もあった。
 これが智恵子抄に書かれなかった発狂した千恵子の姿である。智恵子抄はその意味において、知られたくないものを隠した不完全なものとも言える。しかし、光太郎の千恵子に対する愛は智恵子抄に表れた領域をはるかに越えて純化していった。
 荒れる千恵子をけっして見捨てず、疲労困憊しても賢明に介抱した。そんな光太郎に千恵子もすべての信頼を寄せ、ゼームス坂病院では面会の光太郎に寄り添って、いつまでも離れなかったという。苦しみの極限の中でも二人は心を確かめ合い、『ほんとうの愛』で結ばれていたのだ。
 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。
 かうやって言葉すくなに座っていると、
 うっとりねむるような頭の中に、
 ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
 この大きな冬のはじめの野山の中に、
 あなたと二人静かに燃えて手を組んでいるよろこびを
 下を見ているあの白い雲にかくすのは止しませう。

2、思いの翔をもった自由の人  与謝野晶子
 閉鎖的で封建的な明治の時代にあって、妻子ある人へ愛を高らかに歌いあげ、時代的呪縛を解き放つと同時に、『きみ死にたもうことなかれ』と戦争への警鐘を鳴らした昌子の勇気と熱情は、自由を謳歌する現在においてもなお燦然と輝いている。
 歌集『みだれ髪』にみる自由な自己表現と奔放な情念の横溢は、自らの心の真実を太陽の下にさらけ出しながら、歌を観念から解放した先駆的なものである。
 『臙脂色は誰にかたらむ血のゆらぎ春の想いのさかりの命』
 『かたちの子春の子血の子ほのおの子いまを自在の翔なからずや』
 『いとせめてもゆるがままにもえしめよ斯くぞ覚ゆる暮れてゆく春』

3、凡人のおおいなる非凡  小林一茶
 一茶の生きた時代は今から200年も前のことである。この時代は各地で、強訴、打ち壊し、一揆などが頻発した重税と貧困の時代である。とても風流に俳句などたしなんでいる時代ではなかったのである。何故に一茶は食える当てのない俳句に生涯をかけたのか。奉公先ではいわゆる働き者ではなかったため職を転々としたが、苦しい生活のなかでも俳句を捨てなかった。
 一茶は俳句が何より好きだった。自分の気持ちを歌にすることが何よりの楽しみだった。中央俳壇からは二流に位置づけられ、悔しい想いをしながらも時の赤裸々な心情を歌にかえた。知己が続々と家庭を持つ中で、彼は51歳まで独身で俳諧の荊の道を歩んだ。切迫する時代にも人の言動に左右されることなく、終始マイペースで歩んだ。
 一茶の残した2万句は平凡なありふれた言葉で綴られているが、身近な事象としてそこかしこに魂の叫びが満ちあふれ、臨場感を伴って我々を引き込んでしまう。彼こそおおいなる非凡だったのだ。
 『名月を とってくれろと 泣く子かな』
 『めでたさも 中位なり おらが春』
 『これがまあ ついの栖か 雪五尺』








 
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by kousyuusai | 2005-11-26 07:26 | トピックス

読後感1   

1,カルロス・ゴーン 経営を語る 2003.5.15読  カルロス・ゴーン 日本経済新聞社
 解体の危機的状況にあった日産を見事によみがえらせた男。その経営哲学は「できることをする」にあった。現場に足を運んで、できることを要求した。目標もできる事の積み重ねによって立てられた。彼は確信していた。そして従業員もできることを知って奮い立った。カルロスには日本における人脈も経済的基盤も無かった。それ故に大胆な改革が可能となった。もし彼が日本人の社長であったなら、銀行や政治とのしがらみに逡巡して再建に成功することはできなかったであろう。彼の熱いハートは人種を越えて心に語りかけ、解体の瀬戸際の中でも人を信じることができることを教えてくれた。

2,メガバンクの誤算 銀行復活は可能か 2003.10.11読  箭内 昇  中公新書
 不良債権を抱えて経営危機に陥った大銀行を内部の視点から解き明かす。90年代邦銀の没落は危機意識の欠如した経営風土、すなわち銀行神話によるモラルハザードと、変革を好まない旧守的体質の人事にあったとする著者の主張は自身に置き換えても納得させられる点が多い。高い給与・事なかれ主義の隠蔽体質・顧客不在・内向人事等は大企業に共通した風土だからだ。銀行を含めた公益企業には真の経営者は育たない。いや必要なかったのだ。公益料金等は監督官庁の許可事項であったため、その根回しとコネづくりに長けている人材が必要とされ、顧客や営業への視点が全くと言って良いほど欠落していたのだ。「組織と人事が真の経営者を育成しない仕組みになっていた」という本書は多くの示唆に富む。


3,電力のマーケテイングとブランド戦略 2003.11.20読 青木幸弘・西村陽 日本電気協会新聞部
 時代は電力自由化に向けて着々と進行している。新時代に電力会社はどう立ち向かうのか。競争なき市場に忽然と表れたビジネスという名の挑戦者。販売によって顧客の大切さを学び、マーケテイングの重要性を再認識する事により、経営を変える必要を説く。売る努力の乏しかった時代から、販売中心の180度の転換。社員の意識・風土・人事、そのいずれもが新時代への対応を求めている。

4,年収300万円時代を生き抜く経済学 2003.12.25読  森本卓郎 光文社 
 これからの日本経済が中層階級を崩壊させ、ごく一握りの富裕層と多数の低所得層の二極化を生じさせることを説き、その環境でどう生きるかを問う。著者は田舎暮らしも推奨するが、一人ならいざ知らず多くの低所得者がそれを実行できる土壌があるわけもなく、未来への具体的展望に欠けると言わざるを得ない。それにしても年収300万円時代の到来は、国家破滅の予兆かもしれない。

5,会社を変えた男たち  2004.1.7読  鍋田吉郎 小学館
 ここに取り上げられた25人の男たちは失敗を恐れなかった。いやそれどころか失敗を覚悟で自分の信じる道を歩んだ。失敗したら辞める覚悟で、あるいは打算を捨てて困難に立ち向かった。
 斬新で前例のない提案には常に反対の意見はある。しかし、会社はどんなときにも変わらなければならない。「変わらなければだめだ。」 その強い信念とモチベーションが会社を変えたのだ。25人は皆、仕事に立ち向かう自分が好きだった。誰よりも自分が好きだった。「おれがやるしかない-その思いこみが大切です。」と(株)タカラの池田氏は言う。自分を信じ、攻める姿勢の風土を築き上げる。そのことが会社を変えることにつながると本書は教えている。

6,リンカーン 南北分裂の危機に生きて 2004.1.30再読  井出義光 清水新書
 ゲテイスバーグにおける戦没者追悼式での有名な演説にみられるように、彼はデモクラシーの本質を誰よりも理解していた。それが奴隷解放宣言や第二次大統領就任演説にはっきりとあらわれ、彼の人となりと重なっている。混乱した時代にあって多くの困難な決断をせまられたが、彼は政治が国民のためにあることを片時も忘れなかった。また夫人の嫉妬心が面前で爆発し、大統領として異例の不幸な出来事があからさまになりがらも、強い忍耐心で堪え忍んだ。彼は偉大な政治家であると共に偉大な人間であった。
 第二次就任演説いわく、・・・なん人に対しても悪意を抱かず、すべての人に慈愛を持って、神がわれらに示し給う正義に堅く立ち・・・・またすべての諸国民との間に、恒久的平和をもたらすためにあらゆる努力をいたそうではありませんか。

7、レンズの向こうに自分が見える。  2004.11.10読  野村 訓  岩波書店 
 写真を撮るという事がどういう事なのか。その答えは容易ではない。目的を持って撮る人の中でも、その答えを持っている人は少ない。風景や人物、スポーツなど写真の分野は様々だが、何故に写真を撮るのかと、撮る事がその人にとってどういう事なのかとは、まったく違う意味合いを持つ。写真は誰にでも撮れる。何故に写真を撮るのかと問われれば、多くの人は趣味のため、家族の記録のため、あるいは仕事のためにとすぐに答えは出せるだろう。しかしその写真を撮る事がどのような意味を持つのか。写されたものが何を反映したものなのか。そう問われたとき、明快な答えを持っている人は少ないだろう。
 写真に限らず、人は誰でも自分を理解してほしいと願う。あらゆる行為は自分の存在価値を認めさせる自己顕示的、または自己目的的な行為であり、その結果である作品は目に見える部分と内在して見えない部分とを併せ持つ。内在するその精神的部分は、より深い部分で作者の分身とつながっている。
 人は常に欲している。無意識に欲している。人は本来の自分を抑圧して生きているため、欲望を解放できる適合した対象に出会うと、その内面が大きな力として表出する。写真に価値を見出し、解放された人の写したものは対象が何であれ、必ず自分自身が写し込まれている。そこには自分がなりたいもの、欲しいもの、好きなもの、愛したいもの、言いたいことなどがぎっしり詰まっている。写真は自分の心象風景として欲する何かを訴えているのです。
 本書は写真を通じて自分自身とその在処を確認し、異なる他者や社会を理解することによって逞しく成長する若者の姿を生々しく映し出している。主体性を持って撮られた写真が、自分を写す鏡であることを教えてくれる好書である。
 
8、内側から見た富士通 「成果主義」の崩壊  2004.11.23読  城 繁幸 光文社
 「人のための企業」とは松下幸之助の言葉だ。これは「会社は人によって支えられ、人の幸福のためにある。社員が幸福になるためにはお客様が幸福にならなければならない。」それが企業の存在意義であると説いているのである。本書は富士通という大企業を通して人との関わりを実体験レポートしたものだが、人を尊重しない企業の行く末を暗示するものとして貴重な教訓を内包している。
 成果主義による評価の曖昧さにより社員に懐疑と不満が蔓延し、今まで会社に貢献してきた中高年がどんなに努力しても、年齢により評価の対象からはずされて当然のように無気力化すると共に、成果主義の本当の主役であったはずの若手がこの手法の矛盾点に気づいて未来に絶望感を抱き始めた。「お前なんかに評価されてたまるか。」これが中高年のみならず全社員の本音であった。
 企業の体質が日本の社会構造そのままに今でも「村社会」であり、オープンでなければ成立しない成果主義を形骸化してきた。この閉鎖的ムラ社会の象徴が人事部であり、本来自由で活発な社風の表出であるはずのイントラ掲示板でさえ、裏で管理して公正な評価をゆがめていたと著者は言う。人事部の暗躍が社員同士の信頼感を損ね、しいては愛社精神そのものも崩壊させてきたのだ。また組合とのなれ合いも公正なはずの成果主義を有名無実なものにしていた。
 企業に異なった価値観を尊重する自由で先進的な風土が根付き、社員の問題意識を真剣に受け止める危機意識があったなら著者も退社せずに改革の一翼を担えたはずであるが、もはや実態はそんな理想をはるかに超えて混乱の極みにあったのでしょう。
 成果主義も企業利益も詰まるところは人事である。人が満足せずして何の企業であるのか。「人はどんな困難な事でも、好きなことのためには労苦を惜しまない。」これはすべてに共通する理念だ。愛する人のため、愛する企業のためなら、人は誰から指示されなくても率先して行動する。
 本書は現在の企業に勤める多くのサラリーマンの苦悩を代弁していると共に、目標管理による成果主義がこの主体的な感情をなおざりにして、ただ結果のみに偏った評価に基準をおくならば、いずれ崩壊の近いことを警告している。
  

9、木に学べ    西岡 常一  小学館  2004.12.22読
 本書は法隆寺昭和の大修理、薬師寺の金堂再建など多くの古代木造建築を手がけた「最後の宮大工」西岡常一の珠玉の人生訓であり、その中の「木組みは人組み」は単なる組織論をこえて語り継ぐべき先人の貴重な遺産だ。
 木を組むということは、相反する木々の癖を十分熟知した上でそれぞれが力をあわせるように組むことである。木は南山で育った木だけではない。北山もあれば西山もある。また捩れや反りのない木は無いのだから、その癖を生かして組まなければ建物は傾いてしまう。素性が良いからといって法隆寺造営を全て南山の木でおこなったなら今日我々はその華麗な姿を見ることはできない。南側の木は南山から、西側の木は西山から切り出して使っている。まさに山にある状態で使っているからこそ1300年以上もの間存在するのだ。これが先人の知恵であり、木組みの真髄でもある。
 木を組むことはまた性格や能力の異なる人同士が協力して一つの事業を成し遂げることでもある。木が思い通りにならないときは、それは木のせいでも職人のせいでもなく、それをまとめるべき棟梁の知恵と器量のなさである。自分と異なる者を尊重し、不足するところをかばい助け合いながら皆の心を一つにまとめる。それこそが西岡が言おうとした棟梁の条件であり、「木組みは人組み」の本質なのだ。西岡は言う。もしそれができなければ棟梁を辞めよと。
 「木を組む」という成果を得るためにはまず「人の心を組む」ことから始めなければならない。西岡の教えは表面だけの組織・人事を越えた「人間中心主義」に基づいており、「人組み」が実は均一性ではなくその多様性ゆえにみごとに開花していることを証明しているのだ。


10、震度7を生き抜く   田村康二  詳伝社  2005.7.20   
 大震災はどこにいても必ずやってくる。今起こるかもしれないし1年後かも知れない。しかし多くの被害を伴って必ずやってくる。自分を守るのは自分自身の備えしかない。
 「災害時にはまず生き残る必要がある」と筆者は説く。地震時にどこにいるかによって生存の可否が決定されるが、阪神淡路大震災では死者の87%が自宅で亡くなっているので、まず住宅を安全なものにする必要がある。耐震構造はもちろん、できるなら免震構造を採用すべきだ。
通常の耐震住宅なら建物は亀裂程度でも、内部は家具や建具、ガラス、食器などがいたるところに散乱してとても住める状態ではない。
 免震住宅なら震度7を震度4以下に低減して、その後頻発する震度6程度の余震に対しても安心して住み続けられるのである。水道や電気が復旧するまで不自由な生活が続いても、家が安全であるという安心感はすべての困難に勝る。大切な退職金で新築したのに数年後に震災に遭い残ったのは借金と瓦礫の山では復興の意欲も無くなってしまう。まさに「生死を分けるのが住宅」であり、「安住の地には免震住宅が不可欠」なのである。
 本書は阪神淡路大震災と新潟中越地震の両方で震度7を体験した筆者の医師としての視点が随所に現れており、防災関係者のみならず多くの人々に読んで欲しい貴重な現場報告書となっている。 
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by kousyuusai | 2005-10-27 20:43 | トピックス