カテゴリ:つれづれに思う事( 1 )   

思い出   

1,植村直己追想
 1978年北極点犬ゾリ単独行の冒険に出かけるその直前の講演会で私は植村さんにはじめて会った。小柄な体に真っ黒に日焼けしたやさしい顔。そのなかに大きな瞳を輝かせ北極点への冒険を熱く語っていた。これまでにおいてエベレスト日本人初登頂など数え切れないほどの輝かしい実績を上げてきたのにも関わらず、驕りや傲慢さなどみじんも見せずに淡々と話すその姿に感動をおぼえたものでした。
 偉大な精神力を持つ人だけが表す謙虚さと誠実な態度に接し、当時20代前半の私は胸の高鳴りを抑えられなかったことを昨日のように憶えています。「自分の成果は単なる幸運と周囲の人々の支えがあって成し遂げられた」と彼は言う。しかし私たちは知っている。それが彼のまっすぐな心と、どんな困難にも後ずさりしない類い希な資質によることを。「誠実と勇気」これこそが彼が磨いてきた天賦の才だ。
 充足と感動につつまれた講演が終了し人々が会場を後にしても、私はなぜかそこを去る気にはなりませんでした。このまま帰ってはいけない。 <植村さんとせめて握手だけでもしたい。>私の足は何の迷いもなく、控えコーナーの植村さんに向かっていました。駆け寄りそっと握手を求めた時の第一印象は今でも脳裏に浮かびます。「この人が本当にエベレストに登ったのか」と。演壇で見たときよりもさらに小柄な体躯。おだやかな笑顔。小さくやさしい手。飾り気のない服装。しかし私は見ました。大きな瞳の奥に輝く美しい光を。それはなんと表現したら良いのでしょう。自由な意志、自立した力、あるいは逞しい精神とでも言うべきものでしょうか。人を疑うことなど知らないかのような純真な眼差しと、自信に満ちた寛容さとでたちまち私を引きこんでしまう。 おそらくそのときすでに先人だけが持つ超越した境地に到達していたのでしょう。 今度の北極行が成功されるよう話しかけた私に、一瞬はにかんだ様子を見せながら手を握り、雪焼けの快活な笑顔でこう応えました。「ありがとう。今度の旅は大変困難なものになるでしょうが、あなたの応援を力にします」と。
 「ナイーブで柔軟なハート」それこそが誰もが持ち得ないこの人のものだと直感しました。人生の長短でもなく、富の差でもない真の価値をもった本物の人間がここにいると心から思ったものでした。植村さんとお会いしたのは、このわずかなときが最初で最後でした。しかし幾たび年を重ねても私にこれほど強烈な印象を与えた人は、今だかっていないのです。
生きることを考えさせてくれた大切な人、それが植村さんだったのです。

2、自然の大切さを思う。
 地球は誕生から46億年、オゾン層形成から4億年、原人出現から50万年の時をきざんで来ました。私たちは地球のことを十分理解していると思いがちですが、公転していることを理解できたのが500年前、樹木の過伐採によりイースター島のモアイ文明が消滅したのが400年前なのです。さらにガソリン自動車が発明されたのがたった120年前でしかないのです。地球の歴史の中でこの100年間のエネルギー消費量は幾何級数的でありその弊害がいたるところで現実のものとなっています。
 急激な地球温暖化による環境破壊、オゾン層破壊による健康への影響が危惧されています。世界の国々も多くの国際会議を開催していますが、その主要な対策は消費エネルギーの削減です。消費エネルギーの削減は頭で理解するのは容易ですが、具体的に実践するとなると大変難しい事になります。現在の生活レベルを低下させたり、あるいは向上を残念しなければなりません。省エネ機器を採用するにしても現行機器を買い換えなければならず、廃棄物の発生も心配です。単純に考えて30年以上前の生活にもどれば良いわけですが、考えるだけでも恐ろしくなります。パソコンやクーラー、テレビ、自動車を何台か廃棄しなければなりません。そのようなことは不可能に近い事なのです。ここにエネルギー消費を削減する難しさがあります。
 自然の中を歩いたりキャンプをしたりすると、いつも思うことがあります。ここから小鳥のさえずりや、花々の咲き乱れる美しい草原がなくなったら人生はどれほどのものであろうか。季節ごとに美しい姿態を見せる広葉樹の森が無くなったら、安らぎの深さはどれほどのものであろうかと。潤いに充ちた生活は、緑の木々や花々・動物たちの活気あふれる大自然とともにあるのです。
 私たちは地球に生きています。地球は生活の原点です。おいしい水も空気も地球が与えてくれます。人間は快適な暮らしを一度味わうと、昔の生活に戻るには大変なエネルギーを必要とします。困難なことでしょうが、このかけがえのない地球を大切にし、後世の人々に喜びを持ってバトンタッチできるよう身近なエネルギー消費を見つめることから始めたいものです。

3、私と写真         
 私が写真を始めたのは18歳の時だ。とは言っても最初から写真の芸術性に目覚めたわけではない。山登りを続けていればすばらしい風景に出会える。そんなとき自分の脳裏に焼き付けるだけでは何か物足りない気持ちになり、記憶の記録として写真が必然的に必要になったのだ。
 カメラはほしいけれども新入社員には高嶺の花。年末ボーナスまで待たねばならなかった。どのカメラがよいか写真部や登山の先輩に聞いて回った。ある人は本格的に山岳写真を始めるならリンホフだのハッセルだのと言うし、ある人は最初だからコンパクトカメラだとすすめ、ある人は一眼レフでなければと、聞く人それぞれだった。初心者は大いに迷った。結局決め手は個展を開催したことのある先輩の意見だった。その当時オリンパスから新型の一眼レフ、OM1が発売され小型軽量で山岳に適しているとの話を聞き、カタログも見ないで決めた。まったく無茶な話だが何も解らないのだから無理もない。そして待望の日はついにやってきた。注文したカメラが届いたのだ。封を解く手も震え、まるで宝物でも手に入れたかのように自室に籠もったことを覚えている。いまや廃番となったそのカメラだが、それから10数年の間、山岳で活躍した。やがては現像もフィルムから印画までこなし、モノクロ表現の強さと柔らかさに惚れ込んだこの時代が、私の写真の原点となった。
 写真を作品として見ようとすると、必然的にその作者の意図を探り出そうとする。作者がどのような意図で作画し、どのような思いを込めて対象と格闘したのか。どんな強い意志を持って立ち向かい、どれほど心を磨いてきたのか。作品の中にその行動を読みとり、再び自分に反映する。写真とは自己の心象風景であり、打ち込んだ魂の結実なのである。そしてそれは存在への自己の投影であり、心の証の原点でもある。
 写真に打ち込むとき時空を越えて無心になれる。それはそこに打算や欲望を超越した純粋な何かがあるからなのだ。欲得の世界に写真は馴染まない。自然や人物と格闘するにはあまりにも多くの時間と労力が必要だからだ。それでもなお写すことに情熱を傾けるのは、そこに押しとどめることのできない何かがあるからだ。それが何であるかは定かではないが、おそらく熱情の「写心」とでも言うべきものがあるからではないだろうか。
 その「写心なるもの」を求めて80歳まで、いや命の尽きるまで自らと格闘していくことになるだろう。

4、青き千丈
 もう40年以上も前の1973年の6月、私は広河原からスーパー林道のバスに乗り換えて、北沢峠から仙丈岳に向かった。一日目は快晴の中、小仙丈の尾根を歩き仙丈カールの雪上にテントを張った。10張り程度であろうか様々なテントがカールに彩りを添えている。私と同じ単独の人も3人程見受けられ、夕暮れ前の明るい時間を惜しむかのように食事の準備にいそしんでいる。やがて夕闇の中にランプの光だけが点滅し、今日の疲れを癒すかのように、早々の床につく人もみられる。ラジオでは明日の好天を予想し、歌は明るく透明な声をはずませている。若い私はそれほどの疲れもなかったが、明日の早立ちに備えてシュラフにもぐり込み、先月行った北穂に思いを巡らせながら、知らぬ間の睡眠についていた。
 翌日はヘッドランプにアイゼンを効かせながら白雪の頂に立った。ピッケルに伝う冷気を感じながら、頬の風はもう6月のものだった。まだ明けやらぬ半透明な淡い光の中で甲斐駒の勇姿は眼前に立ち上がり、西に中央アルプス、北に八ヶ岳連峰、南に塩見・荒川岳、その東には白根三山を越えて秀峰富士が燦然と残雪を輝かせている。今日も天候は晴れ。朝焼けの頂にいるのは数人だけだが、至福とはまさにこのことを言うのだろう。どの顔も満面の笑顔だ。
 日の出の時をすぎ私はカール底のテントに向かって下山を開始した。朝焼けの美しい山々に上機嫌な私は注意力を低下させていたのだろう。クラストした雪面にアイゼンを引っかけて転倒してしまったのだ。滑落防止態勢を取るも効き目なし。およそ100m、時間にして数十秒の後、カール底の大石に左肘を強打。反射的に両腕で頭部を覆っていたため突き出た肘が骨折したのだ。それ以外の場所が負傷しなかったのは不幸中の幸いだったが、激突したショックでしばらく声も出せない状況が続いた。近くにテントがあるのだが、助けを呼ぼうにも声も出せないし、体も動かせないのだ。およそ10分程たった後、やっと体が動かせるようになり、近くのテントに歩いて助けを求めた。その後入院して会社や両親、小屋等の関係者にご迷惑をかけたことはここに記さなければならない。これが仙丈における遭難の顛末である。
 高校山岳部時代から山を始めたが、まだ経験は5年ほど。雪山にいたってはその未熟さを隠しようもない。私はこの事故によって失ったものも多かったが、学んだものはさらに多かった。この事故は山に対する認識を根底から覆し、以後の山行きに大きな影響を与えた。山の安全に対して真剣に考える動機になり、行動もより安全を意識したものとなった。安全と冒険の両立。これは一見矛盾する。冒険をしなければ安全なはずだ。しかし現在は日常生活においても危険は常に存在する。冒険だけが大きなリスクを負っているわけではない。完全に安全な登山など存在しないが、危険を予知した準備と対策がそれを可能にしてくれる。登山道・気象・アプローチ状況など常日頃の情報収集、すぐれたパートナーと装備、普段からの体調維持訓練、油断のない計画などがそれだ。
 そして登山の現場では状況に応じた的確な判断が求められる。行きたいことと行けることは全く別の次元で判断しなければならない。私的な要求とチームの目標を客観的に見つめて厳格な評価をしなければならない。時により、何年も前から計画した行動を現場で中止しなければならない事もある。行くべきかいかざるべきか決断する時、安全と温情は背反する。現場の置かれた状況を冷徹に判断できる能力が必要なのである。シェークスピア曰く、To be, or not to be, that is the question- なのだ。
 どんな人でも若いときの失敗はある。青いときの試練をどのように生かすことができるかが、その後の生き方を決定すると言って良いだろう。 
 人生は思い出の頂に咲く一輪の花でもあり、風雪に耐えて生きる這松のようでもある。それぞれの人生を最高の舞台にできるよう、力添えしてくれた人に感謝しながら、全力で生きようではないか。
 
5,応急危険度判定士として新潟中越地震を見る。
 2004年10月23日に発生した新潟中越地震により被害を受けた建築物の危険度を判定して、被災された人々の安全を確保するため山梨県の被災建築物応急危険度判定士として小千谷に派遣された。10月27日、石和の峡東地域振興局庁舎に集結した一行20人は簡単なセレモニーの後、被災地新潟県に向けて出発した。八王子から圏央道経由関越自動車道で越後湯沢の判定士本部へ。関越は月夜野ICから先は災害支援車のみ通行可となっていた。そこで現地状況等のミーテイングが実施され、当日は湯沢の民宿(扇和)で待機となった。越後湯沢までは新幹線も運行されており、周辺の建物にも被害は無いようだ。宿では明日の判定手法とスケジュールの確認が行われ、活発な質問が飛び交った。県の危険度判定士派遣としては初のケースである上に、午前10時40分頃には震度6弱の余震があり判定活動の多難さが予想され、参加者の表情も真剣そのものとなっていた。
 2日目の28日早朝、宿でもらった握り飯3個をザックにしのばせて、判定士本部に集合。一路現地対策本部のある小千谷市役所へ。途中の高速から周辺の地形を見ると被害の大きい十日町や小千谷・長岡市と比較的少ない六日町・小出地域を分けているのは標高1000m前後の山地であることが分かる。それまでは高速道路も通常の平坦な道だが山地のトンネルを抜けて堀之内町に入った途端に民家の屋根を覆うシートが多く見られ、道路も波打つように陥没至る所で補修工事が行われている。小千谷市に入る手前の越後川口SAは舗装に大きな亀裂や陥没が見られる上、高速をまたぐ連絡橋も接続部分で盛上がり使用困難な状態であった。SAから信濃川越しに小千谷市内をみると山々は、幾百と崩れて白い地肌を見せており、シートが家々を覆っている。被害の大きさが予測できる。小千谷ICを出て10分程で市役所へ。市役所周辺は救援車や物資・報道車、自衛隊車両が所狭しと並びさながら戦場のようだ。3階の判定士現地本部で判定地点が指示された。2人一組で私は斉藤康太郎君と写真の上ノ山一丁目地区約20軒を判定することとなった。車で約5分、小千谷小学校の南側にあるこの地域は地名のとおり市街から標高で約30m程上がった高台で旧市街のメイン通りにあたり、築100年の建物も随所に見受けられる。
 地元の方に伺うと以前は商店が軒を並べた街並みであり、どの敷地も縦長で多くの家屋が間口3間・奥行き10間程度でその奥に土蔵がある京の町屋にも似た造りをしている。多雪地の住宅がそうであるように屋根・外壁は鉄板葺きで、1階の窓には防雪用の板戸差込、2階の屋根にはハシゴが装備されている。毎年2mを越す雪に100年耐えてきた家屋も震度6強の横揺れには耐えられなかったのだ。
 危険度判定をして驚いたのは玉石基礎の古い家屋の多くが30cm程横ずれして柱が外れたり、20分の1以上(高さ1mで横5cm)の勾配で傾いた危険な建物がたくさんあった事だ。また建物はそれほどの損傷を受けていなくても、高台の崖にあるために敷地に亀裂が走りいつ地盤崩壊が起こるか分からない不安定な状況も見られた。
 今回の先発隊20名で208軒の危険度判定をおこなったが約29%の60軒が「危険」と判定された。事前予想では10%程度が危険でその他は注意すれば十分に住めると思っていたが、それを上回って被害は相当深刻であった。応急危険度判定の対象は全体で13,000軒ほどあり、これを10月中に完了する計画というが自治体の応援が絶対条件だ。ボランテイアだけでは難しい。
 最後に被災地を見た全体的な感想だが、市役所などの公共建物は構造的に抜きん出て強く、かつ敷地を広く作らなければならないと痛感した。市役所は災害時の司令塔であり、人的・物的な集積地となる。またそこに至る道路も日頃から災害に強いものとしておかなければ、何の役にも立たない。我が山梨県を振り返れば、何とも貧弱な状態が見えてならない。駿河湾沖地震が囁かれて、すでに20年。いつ起きてもおかしくない現状に体制は整っているのか。不安の中で自問するばかりだ。
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by kousyuusai | 2015-09-10 19:28 | つれづれに思う事